千原ジュニアさんの最新作『3月30日』が2008年3月30日に発売されます。この作品は大ベストセラー『14歳』に続く自伝的小説。自分の笑いがまったくうけない苦悩と挫折、彼女との出会いと別れ、そして二度の“死の危機”を乗り越えて手に入れた大切なものを、独自の文章で描き上げた傑作です。
もしも戻れるなら、もう一度あの世界に戻りたいと想った。
もしも戻れるなら、あの人たちと同じ世界に
帰りたいと想った。
もう一度、笑いを創りたい。
もう一度、笑いたい。
絶対に。 (『3月30日』本文より)
序章
…ちょっと読んでみる
第1章 15歳
挫折、初めての恋愛、大好きな祖父の死。
…ちょっと読んでみる
第2章 18歳
親友との出会い、芸人としての成功、先輩芸人の死。
第3章 20歳
二度目の大恋愛、阪神・淡路大震災、急性肝炎で死との闘い。
第4章 21歳
アメリカ旅行、『14歳』執筆。
第5章 22歳
東京進出、再び挫折、彼女との別れ。
第6章 26歳
生死を彷徨ったバイク事故、不可能と言われていたお笑い界に復帰。
神様、僕を殺しかけてくれてありがとう。 挫折、失恋、そして……。二度の“死の危機”の先に見えたものは?
桜庭一樹×千原ジュニア 悪運なんか、笑い飛ばせ!
「書く」ための困難と葛藤を、千原兄弟のDVDを観ることで、何度も乗り越えてきたという桜庭さん。人が生きていくためには、きっと、「物語」と「笑い」が必要なのである。
撮影/山本尚明 ヘア&メイク/渡辺みゆき(桜庭さん) 取材・文/菊地陽子 構成/菅野知子
動画撮影・編集/小松智幸

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桜庭一樹(さくらば・かずき)
1999年、作家デビュー。2003年に開始した「GOSICK」シリーズで注目を集め、2004年に発表された『推定少女』『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』が高く評価される。
2008年、『私の男』で第138回直木賞を受賞。稀代の読書魔。最新刊は 『ファミリーポートレイト』。
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桜庭 一昨年、『私の男』という本を書いていて、それが2ヵ月に一度の連載だったんですけど、重たい話で(苦笑)。 書いているうちに痩せちゃったり、本が読めなくなったりってことが多々あったんですね。そういうとき、千原兄弟のライブDVDを観て、元の自分に戻ってました。この本にもあるんですけど、『私の男』の第1回を書いた後、『プロペラを止めた、僕の声を聞くために。』を観て、リハビリしたんです(と、『桜庭一樹読書日記』のページを開いてみせる)。
千原 うわ、ホンマや! すごいな。こんなんで、リハビリになりました?
桜庭 はい。で、2回目の原稿を書いたときもDVD『6人の放送作家と1人の千原ジュニア』を観ました。私、自分が楽しいときは、笑えるDVDってあんまり観なくて……。つらいときに、「笑いに行く」みたいな感覚なんですね。
──千原さんの作品の、どういうところに惹かれるんですか?
桜庭 あの……、狂気を感じるんですよ。
千原 おおっ(笑)!
桜庭 映画で主演なさっていた『ポルノスター』とかも好きです。あの、スクランブル交差点を渡ってくるときの顔が忘れられない。最近もう一度見直して「この人が今も生きていることが奇跡だ!」と思ったぐらいなので(笑)。たぶん私は、狂気が、笑いという娯楽になっているところが、見たいんでしょうね。哀しみとか苦しみが笑いになっていく作品を作った時点で、ご本人もその痛みを乗り越えられるんだろうし、観ている方も一緒に乗り越えられる気がする。しんどいときって、人は、すべてを笑い飛ばしたくなるんじゃないかって思います。
千原 「すべてを笑い飛ばす」という考え方は、僕がお笑いやっていることの、根っこのところにあります。バイクで事故って、顔がグッチャグッチャになった後のことも、今はいろんなところで笑いにしてますけど、最初は、テレビではその話はしてなかったんです。でも、ご飯食べながら松本(人志)さんとしゃべってて、「おもしろいな、おもしろせつないな。それで番組できるやろ」となって、それが『すべらない話』につながった。そのときに、たまっていたものが、流れ出したみたいな感じで。
──桜庭さんが、千原さんに感じる狂気というのは、具体的に言うと?
桜庭 コントを観ていて、「これ、どうやって作ったんだろう?」っていつも驚いてしまうんです。作り方全然わからない。たとえば、『プロペラ〜』は、ヘリコプターのお母さんに育てられた男の子の話で、授業参観で、息子の声を聞くために、お母さんは、プロペラを止めて、落ちて死んでしまうんです。私はそのお母さんがすごく好きで……。ヘリコプターに育てられた少年という発想が、『オオカミ少年』にあるってことまではわかるんです。でも、その先の展開が、どうやって生まれたのか、まったくわからないわけですよ。
千原 僕もわかんないですよ。
桜庭 ほかにも、いろいろあるんです。説明できないものが。そういう、とてつもない発想が生まれたときのことを、私は、「空を飛んだ」と表現するんですけど、でも、人は空を飛べないので、飛べるってことはやっぱり狂気だと思う。
──桜庭さんの『ファミリーポートレイト』では、生きるうえで「物語が必要な人」が主人公ですが、千原さんは、物語によって救われたことってありますか?
千原 (考えて)……あんまりないッスね。うーん……。あるのかな……。ただ、ストーリーがある方が面白いとは思います。僕にギャグがないのは、そういうことやから。
桜庭 私のイメージでは、千原さんの場合は、身に降り掛かったことが自分の中でお話になるんじゃないかなって思うんです。あったことを全部言うと普通なんですけど、こことこことここをつなげるとこうなる、みたいな。短編小説書くような感じで、いらないところを取っていく……。
千原 あー、そうかもしれない。
桜庭 ウソじゃない、本当の話なんだけど、構成によって、独自の、面白い話を生み出すことができる。あったことを、どんどん、お話として作れる人。でも、私の場合は、読んで、読んで、読んで、取り入れて書いて、取り入れて書いて、なんです。破滅的な人を書いてはいるけれど、自分にはちゃんと、家があって、毎日同じ時間に帰る。本人はいたって普通なんです(笑)。
千原さんの場合は、消費されたことすらお話の材料になって、また物語れる。その繰り返しができるんじゃないでしょうか。
千原 どうなんやろ。まあ、自分の周りで起こったことは、全部、おいしいなとは思いますね。たとえば、『14歳』っていう本を出した後に、引きこもりの子供がいるお母さんたち大勢の中で、『14歳』を朗読します、みたいなテレビ番組があって、自分の中ではもう笑い飛ばしてる話なのに、隣にいた女優さんが「つらかったでしょうね」とか涙ぐんだりしてると、それもまた話としては面白いと思えるから。
──面白いことは、いつも貪欲に探しているんですか?
千原 なんかおもろいことないかな、と思ってそこに行っても、ないですね。何にも思ってない日常で、何もおもろいことないやろ、と思って行ったときのほうが、珍事件が起きたりします。
──『ファミリーポートレイト』の中に、高校の校舎が登場するんですけど、それは、花園神社の裏にある、吉本の東京本社がモデルなんだそうです。
千原 へえ、そうだったんですか。
桜庭 一度、伺ったことがあって、あそこ、廃校になった小学校なんですよね? 夜、ナイターのライトみたいなのに照らされていて、「学園祭の前夜みたいだな」って。ここにいたら、すごいアイデアが湧くんじゃないかと思ったんですけど。
千原 外はいいんですけど、会議室(教室)はダメ。どっこもアイデアが浮かばない(苦笑)。最悪ですね。それは、芸人全員言うてます。壁の打ちっぱなし感とか、「あかんわ〜」って。たしかに、祭りの前の日みたいな感じはありますよね。僕も、初めて行ったときは、「うわー!」と思ったんですけど、教室入ったらダメだった。
──千原さんがコントを作るときは、いつもどうなさっているんですか?
千原 僕は、とにかくしゃべります。構成作家が目の前にいて、そいつは、もう17年ぐらいの付き合いなんですけど、ただひたすらしゃべる。で、書記がいて、それを記録してます。そのときは僕、何しゃべったか全部覚えてないんですよ。憑依してる感じ。
桜庭 私も、編集さんとのディスカッションは多いですね。構成作家さんって、私にとっての担当編集者かもしれないですけど、その人が鏡になってくれて、吸収してくれる。増幅器になってくれて、会話しながら膨らんでいく感じですね。
──千原さんは、継続的にコントライブをなさっていますけど、表現のプライオリティは、コントライブが一番高いんですか?
千原 そうですね。
桜庭 (隣でウンウン頷く)あの……、一ファンの勝手な、勝手な、思い入れですけど、もっと大勢の人に、千原兄弟のコントを観てほしいと切に願います……。
──千原さんも、自分のコントを観てほしいという気持ちは……。
千原 めっちゃ、ありますよ。自分が一から作ったものを観てほしいという気持ちは、芸人なら、みんなあると思いますよ。たとえて言うなら、コントは、バイクを一から作るみたいなもの。テレビは、用意されたバイクに乗って、時速150・出す、みたいな感じですよね。で、前に時速150・出したら、今度は151・出したる、と。
──以前、新しいものが、いちばん面白くないとイヤだっておっしゃってましたね。
桜庭 それは、私もそうです。いちばん新しいものが、代表作でないと困る。読者の中には、「あれがこの人の最高傑作」と愛着を持ってくれる人もいますけど、とはいえ「その再生産を」と言われても困るので。作る側としては、常に次のことを考えていかないと。
──書くモチベーション、コントを作るモチベーションは、それぞれどういうところにあるんですか?
桜庭 私は、書き続けることが日常なので……。この間、書くことは仕事でも趣味でもなくて、戦争だという言い方をしたんですけど、戦争が続いている限り、闘いに行くしかない。そういう風に思っている人が作ったものでないと、面白くないと思うんです。
千原 僕は……、笑ってもらうことで、浄化されるということはもちろんありますけど、コントライブは、やらなくても飯食えるから。
もっと言えば、赤字やからね。ただ、「こんなコントしようと思てんねん」って話をするのが、めっちゃ好きなんです。
あとは、大げさな表現になりますけど……愛……、なんでしょうね。僕がお客さん笑かしたいと思う気持ちっていうのは。
桜庭 ああ、それ、すごくわかります。
私の場合、プロになってからもしばらくは、素人と変わらなかったんです。自分のためだけに書いていたから、売れなくて……。お客さんの反応がないのは、どうしてかな、と思ってたんです。でも、編集者とのやりとりの中で、「読者はこういう風に読んでいるから」と言われて、やっと「これを人が読んでいるんだ」って考えるようになった。それから書いた本が、初めて重版がかかって……。作家の場合、お笑いの方にとっての笑い声が、読者の反応に当たるのかもしれない。
(「FRaU」2009年2月号より)

HOT&COOL放熱対談! 「死にかけたらこそ、今がある!」
国会議員の義家弘介(よしいえ・ひろゆき)とカリスマ芸人の千原ジュニア。まったく違う道を歩んでいるように見える二人だが、実は共通点が多い。同世代であり、祖父母に育てられた時期があり、学生時代は“引きこもり”……。そして死に直面した体験から、人生の軌道を大きく変えた二人でもある。熱き男とクールな男の放熱対談です!

──意外な取り合わせのお二人ですが、実は共通点があるんですよね。どちらもバイク事故で生死の境をさまよい、みごと生還されました。
義家 「そうなんです。僕は大学4年生で、弁護士になる夢を追っていた頃でした。そのために勉強一筋で、バイトは日雇いの肉体労働、多分、疲れていたんでしょうね……。バイト帰りの真夜中、気づいたら民家の石塀に激突していたんです」
千原 「僕も夜中、急に動き出したタクシーを避けたら、石柱に激突でした」
義家 「ヘルメットはかぶっていたの?」
千原 「かぶっていたんですけど、ちょうど暖かくなってきた時期で、フルフェイスから半キャップに変えたんですよ」
義家 「半キャップで石柱に当たって、生きてたのも驚きですね」
千原 「それが、フルフェイスやと顔面は無傷だっただろうけど、衝撃がすべて首にきて、多分死んでいただろうと医者に言われました。半キャップだった分、衝撃を顔で受けたので、助かったそうなんです」
──お二人とも、数日後に目が覚めたら病院にいたそうですね。
義家 「僕は断片的に記憶があるんですけど、目が覚めると全身に激痛が走り、また気を失う、その繰り返し。それが手術前なのか、あとなのかはわかりませんが」
千原 「そういう感じですよね。一日のうちに1分くらい意識が戻る感じで」
── 一番、辛かったことは何でしたか?
義家 「もう、何もかもですよ。胃が破裂しているから、吐くのはすべて血で、呼吸できなくなる。腸も破裂してるから、下血がひどい。危篤になって、復活して、また危篤になって……という状態ですから」
千原 「僕はもう芸能界で仕事していたので、顔面がグチャグチャになっているのを鏡で見て、“ああ、もう芸人に戻られへんな”と感じたのが一番辛かったですね。“終わってもうた、これから何すんねん”と」
義家 「僕は危篤の最中に、生きることを決意したんですよ。グレていた頃に通っていた学校の先生が見舞いに来て、手を握りしめて、血を拭き取ってくれて。“あなたは私の夢だから、死なないで”と言ってくれたんです。最初は、4年も前に卒業したチンピラのために先生が来ているなんて、夢だと思いましたね。でも、だんだん現実だとわかって……、その時に“なんとしても生きよう”と決意しました」
千原 「僕も、先輩から後輩までいろんな芸人仲間が毎日ひっきりなしに見舞いに来てくれて、そこで勇気づけられましたね。僕はまったく話せない状態なので、目の前で芸人同士がバカ話をして帰っていく。病室が楽屋と化してました」
義家 「ハハハ、なるほど」
千原 「その会話を聞いていたら、“僕もその世界に戻りたい”と思いましたね」
──リハビリも辛いと聞きますが、その励ましが力になりました?
義家 「そうですね、先が見えないとやる気になりませんから。これは千原さんも同じだと思うんですけど……、小便の仕方、忘れてませんでした?」
千原 「あ〜、はいはい」
義家 「ずっと管がつながっていたから、それを抜いて“さあ、自分で”と言われても、出てこないんです。情けないくらい何もできなくなるので、歩けるようになった時は“生まれ変わったな”と思いました」
千原 「僕はとにかく病院がイヤやったんで、無理やり退院して自宅療養に切り替えたんです。後輩が毎日、世話をしに来てくれるんですが、夜になるとみんな家に帰って。一人になった時に、傷口にテープを貼ってシャワーを浴びたんですけど、そこで貧血で倒れたんです。4時間くらいシャワー浴びながら、意識はあるのにまったく動けなかった。地獄でしたね」
──それだけの苦しみを経て、復活されて……。この体験は、お二人の人生の転機となりましたね。義家さんは、弁護士から教師に志望を変え、ジュニアさんはお笑い観が変わったとか。
千原 「もしこの事故がなかったら、今とはまったく違う芸人でしょうね。簡単に言うと、“愛”が一番大きく変わりました。事故の前からたくさん受けていたんでしょうけど、まざまざと頭から愛をぶっかけられたのが、あの経験でした」
義家 「僕もあの事故がなければ、少なくとも教師にはなってなかった。生き返った時に、“僕は一人で生きてるんじゃない、まわりから生かされているんだ”と思ったんです。それまでいろんなものを憎んできたし、勝手に生きてきたと思っていたけど、あの経験で感謝することができた。千原さんと一緒で、愛を実感できたから。それならまわりに恩返ししなきゃいけない、誰かにそう思ってもらえる存在になろうと、教師を目指しました」
──ジュニアさんの『3月30日』、義家さんの『不良少年の夢』を読むと、あの事故はある意味、運命だったのかな、と思ってしまいますね。
義家 「僕はバカだったから、体で覚えるタイプなのかも。本を読んでも“ウソ言ってんじゃねぇよ”と思ったし、大人の道徳的説教なんて吐き気がしていた。その分、あの事故は理屈じゃなかっただけに、俺たちが選べるのは“いかに生きていくか”ということなんだな、と思いました」
千原 「僕も“生かされてる”感は感じますね」
──著書を読むと、お二人とも昔は「いつ死んでもいい」という感覚で生きていたような人生ですが、死生観も変わりましたか?
義家 「死の間際を体験したことは、ある意味では強さになってますね。だって、もう何も怖くないですから。怖いのは、自分を支えてくれる人を裏切ること。そのためにも少しでも気合を入れて生きていかないと」
千原 「僕は死生観というよりも、“死ぬか、笑いを取れるか”という考えになりました。笑いを取れない=死、やから。生きたいというよりも、笑かしたい、笑いたい、面白いことを言いたい、という気持ちでいっぱいでした。死んだらボケられへんなんて、イヤやな、と」
──芸能界復帰直後は、事故のことも笑いにしていましたね。
千原 「みんなも知ってることなら、笑いにするしかないなと思ったんです。芸人は、この世に笑われへんことなんてない、と考えますからね。そうすることで浄化もできたし、死にかけた甲斐もありました」
義家 「“死にかけた甲斐もあった”って、すごい言葉ですね(笑)。でも、僕も最後の一日まで生き抜きたい、と思うようになりました。一日長く生きるだけで、誰かに会える。その誰かに、何かを伝えられるかもしれない。そう思うと、この存在が続く限りは歩き続けたいですね。この道の端っこには、たくさん苦しんでるヤツがいるわけで。そういう人たちと出会える限り、どこまでも歩いていくことができるんです」
──最近は、自分の命を粗末にする人も多くいます。そんな人たちに、なんて声をかけてあげたいですか?

義家 「千原さんの言葉じゃないですけど、日常に笑いがあれば、死のうとは思わないんですよね。シンドイ時に何を探せばいいかというと、温かいものや笑顔。その材料を与えるのが、教育者であり芸人さんだと思うんです。そういう意味で僕と千原さんは、歩いている道は違っても共通なんですよ。人に笑顔を与えることで、自分も“生きていてよかった”と思えるしね。生きることは個人じゃなく、多くの人間関係があってのことなんですから」
千原 「特に学生さんで自殺する人が多いですけど、それは想像力の欠如だと思います。たとえ今イジメられているとしても、それが続くのはせいぜいあと3年。卒業して会社に入って、金ももらえて彼女もできて、そう考えたら“ここで死んでる場合ちゃうな”と思えるはず。目の前を見すぎて、先を想像できてない気がするんです」
義家 「みんな、知らないんですよ。“死んだら楽になる”といいますけど、生死の境目をさまよった僕に言わせると、全然楽じゃないですもん。誰も死後を経験してないんだから、死んで楽になるかなんてわからない。そんな不確かなものにすべてを賭けるくらいなら、今ある確かなものにかけたほうがよっぽどマシですよ。イジメてるヤツに立ち向かってもいい、自分を心配してくれる人に心を預けてもいい。死んで楽になるより、よっぽど確かですよ」
──たくさんの方々に勇気を与えているお二人ですが、今後の目標は?
義家 「最大の目標は、自分の学校をつくることです。その手段として、国会議員になっていろんなシステムを変えて、生徒たちの声を社会に届けているんです。そして最期はやはり、教室でこの生命を閉じたいですね。それが生かされたあの時の答えだと思うんです」
千原 「もし、その学校ができたら、ぜひ学園祭に呼んでもらえたらと(笑)。僕は、目標というのは特にないんですよね。ただ、死ぬまでやれたらなと思うだけです」
義家 「臨終までギャグにする、とか(笑)」
千原 「そうなったら、すごくいいですよね」
──ここまでのお二人のお話は、それぞれの著書により詳しく載っています。ジュニアさんの『3月30日』は、『14歳』に続く最新小説ですね。
義家 「千原さんはその日が誕生日なんですよね? 僕は3月31日が誕生日なんですよ。お互い、アリエスの男ですね(笑)」
千原 「ハハハ、ホントですね。『3月30日』は僕のことというより、まわりがどれだけ温かかったか、ということを綴った本です。“芸人の世界って、楽しいところやねんな”とちょっとでも思ってもらえたら、うれしいですね」
──義家さんは、多くの著書でご自身の体験や、教育に関して語っていますね。
義家 「僕の本は、単なる放熱です。教育は熱の伝達に他ならないと思うんですよね。それは学問の楽しさを伝えることだったり、生きることの意味を一緒に探すことでもある。もし震えている人間に届く熱があるのなら、それはラジオでも活字でも、あるいは教室でも社会でも、放熱し続けていくことが救ってもらった自分の務めだと思っています。その熱を感じてもらえたら、すごく幸せなことですね」
千原 「先生が書いた本と、チンピラ芸人の書いた本が、同列に並べられても、別物ですからねぇ」
義家 「いやいや、僕もチンピラ先生ですよ(笑)。同世代の千原さんからは、すごく影響を受けています。僕らの世代は、たくさん伝えるべきことがあると思うんですよ。そういう意味でも千原さんは、かなり筋の通った男ですよね」
千原 「ありがたいお言葉をいただきましたけど、まったくそんなことないです(笑)」

義家弘介(よしいえ・ひろゆき)
生年月日/1971年3月31日
出身地/長野県
血液型/O型
2007年、参議院選挙で当選。
レギュラー番組/『ヤンキー先生! 義家弘介の夢は逃げていかない』(ニッポン放送)など。
著書/『不良少年の夢』(光文社)、『ヤンキー母校に生きる』(文藝春秋)、『ヤンキー先生の教育改革』(幻冬舎)など。