第1章 「高性能勉強ロボ」との出会い

「京大入ってや」 

 高校3年の春、宇治原(うじはら)の部屋で僕は言った。

「なんで?」

 ジンをコーラで割った100パーセント悪酔いする酒を飲みながら宇治原が聞いた。

 ジンをオレンジジュースで割った100パーセント悪酔いする酒を飲みながら僕は答えた。

「芸人なったとき売りになるやん」

 

 宇治原とは高校で知り合った。

 僕が通っていた高校は大阪にある国立の小中高一貫の学校だった。いわゆる「進学校」と言われるところだ。

 そこは「進学校」独特のめちゃめちゃ自由な校風だった。校則はなく生徒手帳には校歌しか載っていなかった。残りのページはすべて白紙だった。

 テストも「無監督制」で机の中に何を入れていてもよかったし、教科書を見てもよかった。しかしカンニングをする生徒は誰もいなかった。本番のテスト、つまり大学受験で意味のないことは誰もしなかった。

 一番の「不良」でも「白シャツをズボンに入れない」ぐらいの反抗だった。

 僕の通っていた高校は付属の中学から160人がそのまま高校に進学でき、他校から20人が高校受験で入ってくる。その20人は格段に勉強ができた。その証拠にその20人は現役かそうでないかは別にして、京大か東大に入るのだ。

 それに比べ、中学からエスカレーターで入った僕は高校受験がなかったし、どんな成績でも全員高校に上がることができたので面白いように成績が下がっていった。

 というか、もともと僕が中学に入学できたのも特殊な理由だった。僕は中学1年の1学期まで長野の国立に通っていたが親の転勤で大阪に引っ越すことになり、大阪の学校に転入した。

 長野の国立に入れたのもまぐれだった。

 僕の3つ上の姉がその学校に行っていた。しかもかなりの優等生で先生の信頼も厚かった。中学の入学試験の面接でこう言われた。

「菅(すが) クンってお姉ちゃんいますか?」

「はい。ここの中学3年生です」

「わかりました。次の方、どうぞ」

 こうして僕は長野の国立に合格できた。

 そんな僕が、長野の国立に比べて学力がかなり上の大阪の国立にどうして転入できたかというと、国立同士のつながりがあり、空(あ) きがあると転入できるのだ。そして運のいいことに、僕が大阪に引っ越すのと同時期に大阪から東京に引っ越す生徒がいた。こうして運だけで進学校に入ることができたのだ。

 しかし、それからが地獄だった。

 入学できたはいいが、あたりまえのように勉強についていけなかった。もともとの学力に違いがあるうえに、授業の進み方がまったく違っていたのだ。

 長野の国立の授業は変わっていた。

 長野は教育なんとか県に指定されているらしく、新しい授業のやり方を試す場になっていたのだ。ポテトチップスとかで期間限定で、ある地域だけで変わった味をだして評判をみるやり方に似ていると思った。

 まず机が普通に縦と横に並んでいるのではなく、真ん中がすっぽりと空いた、いわゆる「コの字形」だった。そして先生が黒板の前に立って教えるのではなく、真ん中の空いたところに立ち、授業をするのだ。それもただ単に教科書に載っていることを教えるのではなく、「生徒との会話」が主だった。

 たとえば世界史の授業では年号を憶えるとかいう暗記だけではなく、「あんなに大きなピラミッドをどうやって造ったのか?」を一時限かけて話し合うのだ。

 このときに先生が「意見がある人!!」と言えば、全員が手を挙げなければいけないルールがあった。

 意見がない人はこの世の中にいないという先生の考えだった。もちろん意見がないときもあったが、そのときは「前の人と同じです」と言ってもかまわなかった。

 先生があえて答えをださないのも特徴だった。

 そのピラミッドのお題では答えなどあるはずもなく、僕たちのクラスは「引っ越しのときにピアノを運ぶように石の下に布を敷き何人かで運んだ」という結論に達した。

 理科の授業は教科書を見てはいけないルールだった。6班に分かれて実験をするだけの授業だった。

 たとえば「石灰が溶けている水に二酸化炭素を混ぜるとどうなりますか?」という問題があるとする。

 答えは「白く濁る」なのだが、教科書を見ていないので答えを知らないのだ。答えを知らないまま実験をするのでドキドキして、とても楽しかった。

 そんな状態で実験すると「白く濁る班」と「白く濁らない班」に分かれる。いよいよ先生の登場だった。手際よく実験をしていき「白く濁る」のを見せるのだ。

 そこでようやく喜ぶ班と残念がる班に分かれることになる。

 このようにして授業をするので授業自体は楽しかったし、授業ででてきた事柄(ことがら) は忘れることはなかった。

 ただ、この授業には欠点があった。授業が進むスピードが極端に遅いのだ。長野の国立に行っているときは気がつかなかったが、大阪の国立に転入して初めてそれまでの授業が遅かったことがわかった。しかも大阪の国立は極端に授業のスピードが速かった。

 長野で習っていた英語はブロック体だったが、大阪では筆記体で授業が進んでいった。何を書いているのか、さっぱりわからなかった。

 なんとか筆記体をマスターする頃には、教科書の登場人物であるたけしクンの英語の能力がまったく変わっていた。

 長野ではナンシーにハローと自分の名前しか言えなかったたけしクンが、知らない間に英語がペラペラになっていた。大阪の文化をナンシーに説明していた。

 もう僕が知っているたけしクンじゃなかった。


(……つづく)

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