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(IV)
ふみえは、デビューしてから、さまざまなカメラマンに撮影された。木村晴、野村誠一、さらに山岸伸とそれぞれのカメラマンは、同じように撮っているにもかかわらず、まったくちがった写真を撮っている。いちばんはじめにふみえを撮ったのは、もちろん木村晴であった。
その頃の木村は撮影中にはほとんど話さず、黙々とシャッターを切りつづけるタイプであった。
野村誠一も木村と同じように、それほど多く話すほうではなかった。しかし、野村が気に入るポーズをふみえがとったときには、「かわいいよ」「きれいだよ」と声をかけてくれる。ふみえは、そのように声をかけてもらえることによって、写真の仕上がりを期待した。
山岸伸は、フィルムチェンジのときに、冗談を交えて笑わせる。サービス精神旺盛で、ふみえにも気を遣っていた。
山岸は、細川ふみえというグラビアアイドルが好きだった。触ったことはもちろんないが、19歳のころから、その豊満な乳房はマシュマロのようにやわらかそうに見え、かとうれいこにはないふくよかさがあると感じていた。しかも、お尻までつい触れてみたくなるような、裏まで見たい、と思わせる魅力にあふれている。
ふみえの魅力は被写体としてだけではなかった。ふみえには得体の知れない不思議な一面があった。
(付き合ってみたら、おもしろいかも……)
と思わせる雰囲気があった。タレントっぽくなかった。そのことが、彼女にとってはちょっと不幸かもしれない、と山岸は思った。
一方、野田にも心配なことがあった。「これが正しいんだ」と言っても、彼女は納得しない。その裏を考えて自分で答えを出す。
ふみえは、ある意味で、ひとをよく観察している。自分のやりやすいように空気を変えていってしまう、かとうれいことはちがって、ひとを見ながら、その場で反応し、立ち回っていくタイプである。
ふみえは、NHKの朝の連続テレビ小説『あぐり』をはじめとして何本ものドラマ、『菊次郎の夏』といった映画に出演した。
その台本を見て、野田はおどろいた。ふみえがペンで書きこんだ赤字で埋めつくされていた。台詞ひとつひとつの意味を、深いところまで汲み取り、どのように演技するか、自分のイメージを書きこんでいるのだ。
「おれが台本を読みこめと言ったのは、こういう読み方をしろということではないぞ。演じるうえで、わかっているだけでいいんだ」
野田は、ふみえに注意した。
「おまえは、台詞の裏を読むだけでなく、またその裏を読もうとする。裏の裏を読みすぎ、結局、もとに戻ろうとしても戻れなくて、とんでもないところに行っている。考えすぎるんだ」
1995年(平成7年)、ふみえはNHK大河ドラマ『八代将軍 吉宗』で、吉宗の側室・古牟の方を好演した。
ふみえといっしょに仕事をしたスタッフからは、彼女を評価する声があがった。
「ふーみんは、すごく女優に向いている人だな」
(V)
1997年(平成9年)11月、ふみえはフジテレビ系列のトークバラエティ『いつでも笑みを!』で、アメリカ出身の大道芸人ブライアン・ホルスと出会った。番組は「生まれ変わったら大道芸人になりたい」という企画で、お手玉のようにさまざまな道具を操るジャグリングをふくめ、ストリートでのパフォーマンスのノウハウをブライアンに習うというもの。ふみえ自らが希望し実現した企画だった。
ブライアンは、アメリカ・インディアナ州出身。幼少の頃より修業を積み、プロのジャグラーとして十数ヵ国を回った。初来日はインディアナ州立大学在学中であったが、日本が気に入ったブライアンは再来日し、愛知県の南山大学に留学。その後、イベント会社に籍をおき、ラジオのドラマやパーソナリティ、テレビやショーなどの出演活動をしていた。
番組での共演以来、ふたりは東京と大阪に離れていたこともあり、電話で時々話をするような間柄だった。
1999年(平成11年)2月、ふみえは急性腸炎で入院した。ふみえが、ブライアンにそのことを伝えたのは、入院した夜の午前1時を過ぎたころであった。
ブライアンは早朝、新大阪から始発の新幹線で、ふみえを見舞いに東京までやって来た。
ブライアンが病院に駆けつけた時、病室には、ふみえの父親が見舞いに来ていた。このとき、ブライアンは、自分のふみえへの強い気持ちに気づいたという。
ブライアンが帰った後、父親は娘に言った。
「あんなに想ってくれる人と出会えて、よかったね」
それから、ふたりの仲は急接近した。おたがい仕事が忙しく、遠距離恋愛だったため、会う機会は少なかった。
ふみえは、自分の仕事を理解してもらうために、自分の写真集をブライアンに見せた。
ブライアンは、ビキニを着て大胆なポーズをとっている写真に驚いた。
「きみ、こんな仕事をしてたの!?」
このころのふみえは、水着撮影はほとんどしていなかった。
ブライアンは、写真の中の「巨乳アイドル」ではなく、目の前にいるふみえしか知らなかった。
「写真の中のきみと、実際のきみとは、イメージが全然ちがうよ」
ふたりは物理的な距離をカバーするため、頻繁に電話やメール、手紙などを交換しあった。そのおかげで、ふみえは遠く離れていても寂しいと感じたことはほとんどなかった。
が、野田は、ふみえがブライアンと付き合うのには反対していた。野田の見るところ、ふみえは、優秀な才能をもっている男性に魅力を感じる。ブライアンは、自国語である英語を話せるだけでなく、流暢な日本語を身につけている。そのうえ、ひとを魅了する一流の芸もある。ふみえは、そんなブライアンに惹かれたのだろう。
ふみえも頭は悪くない。文章を書かせても、整った文章を書く。だが、高校を出ていないコンプレックスを抱いている。だから、才能に富んだ男に惚れてしまうのかもしれないと、野田は感じていた。
野田も高校を中退している。そのことをふみえに告げ、「引け目を感じることはない」と言ったこともあるという。
ある時、ふみえとブライアンのふたりは、雪の降る京都の神社へ行った。傘を差していたので、すれちがう人々がふみえに気づくこともない。
ブライアンは、神社の階段を登っているときに足を止めた。なんだろうと彼のほうへ顔を向けたふみえに、ブライアンは言った。
「これからも、ぼくの力になってほしい。ぼくも、きみの力になる。その気持ちの証拠として、これを預かってほしい」
ブライアンは、ふみえに指輪を渡した。
ふみえは、うれしかった。さっそく野田とふみえの両親に話し、ブライアンと結婚する許しをもらったという。
1999年(平成11年)7月、ふみえはブライアンと婚約発表をした。じつは、この発表は野田の提案であった。
「外国人との交際を隠していることがバレると大スキャンダルになる。そうなったらタレント生命が終わるぞ。交際をやめるか、結婚宣言をするか、どちらかに決めろ」
婚約発表の記者会見で、ふみえは幸せそうに微笑みながら言った。
「いっしょにいると楽しくて、自然にふるまえるんです。彼とは笑顔の絶えない家庭をつくっていきたい。結婚式は『春』に、日本とアメリカ、ハワイでおこなえたらと考えています。それまで温かく見守ってください」
ふみえは、ブライアンについて語っている。
「わたしが具合が悪いときは面倒を見てくれて、相手が大変なときには、わたしが面倒を見る。そんな持ちつ持たれつのような関係が本当に自然で楽なんです」
そんなある日、ふみえは、ある雑誌に載った記事に愕然とした。記事には、大きな見出しで「青い眼の大道芸人」と書かれていた。
ふみえには、その見出しがブライアンを傷つけ、築き上げてきた自分とブライアンとの信頼関係を崩しかねないように思われた。
そして何より悔しい事実が明らかになった。その雑誌の取材者からは、掲載前にイエローキャブに原稿が送られてきていた。しかし、あってはいけない事務所のミスで、ふみえの目を通らないまま、取材者にオーケーが出てしまった。
ふみえは大抵のことは我慢してきたという思いがあった。しかし、考えに考えて、このことはどうしても譲ってはいけないと判断した。
ふみえは野田に訴えた。
「謝ってすむ問題だと思っていません。責任者である副社長をクビにするべきだと思います」
野田は、黙って彼女の言うことを聞いていた。ふみえは、なおも続けた。
「でも、それは不可能でしょうから、わたしがイエローキャブを辞めます」
野田が、ようやく口を開いた。
「辞めて、どこへ行くつもりなんだ? どこかに移籍することは許さない。もし移籍するというのなら、おまえを潰すぞ」
ふみえは、脅しめいた野田の言葉にも、ひるまなかった。
「それでは、もう仕事はいたしません。でも大変畏れ多いことですが、泣き寝入りすることもできません。イエローキャブを訴えさせていただきます」
野田は、ふみえが本気だということを悟った。
「わかった。おまえは間違ったことは言っていないよ。キャブを辞めるなら、自分で会社をつくればいい。おれが手伝ってやる」
しかし、別の件で野田には野田の我慢できない事情もあった。
(ふみえから直接、文句を言われるのはかまわない。しかし、ブライアンが横から、あれこれ口をはさんでくることは認めない)
だが、ふみえは野田にとって、大切に育ててきた宝物だった。やはり芸能界から追放するのはしのびなかった。
野田は、ふみえに言った。
「下舘を連れていけばいい」
野田は、イエローキャブのマネージャー下舘忠幸を連れての独立を許した。
2000年(平成12年)6月1日、ふみえはイエローキャブから独立し、新宿区本塩町に「ウエルメイド」を立ち上げた。野田は役員として新会社に名前を連ねた。
「ウエルメイド」設立に際しては、ふみえの父親と野田が数回会談した。結局、ふみえの父親が法的手続きをすべて引き受け、気心知れた敏腕マネージャーや税理士もふみえに付くかたちとなり、会社はふみえの予想より簡単に設立することができた。
野田は、2004年(平成16年)11月26日に開かれたイエローキャブの株主総会で社長を辞任した。筆頭株主のスタッフ東京と経営方針をめぐって対立したためである。ふみえは騒動に一切巻き込まれなかった。
一連の騒動に関して、野田は直接、ふみえには何も言わなかった。マネージャーを通じて、ふみえに事実を伝えておいてほしいと伝言しただけだった。
ふみえが野田に電話をかけたのは、野田がイエローキャブと決別することがマスコミに出てからであった。
「ニュースを見ました。お見舞い申し上げます」
ふみえは、あえて多くは語らなかった。「だいじょうぶですか」といったねぎらいの言葉もかけなかった。たがいにビジネスとして協力しあう関係は続いている。どんな言葉をかけるより、社長のプライドを傷つけない、それが今自分にできる最善のやさしさだと判断したのである。
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