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(III)
野田が雛形のスカウトに動いた1994年(平成6年)6月当時、雛形は16歳になっていた。同年代の子たちは、高校2年生になっていた。が、雛形は高校には進学していなかった。とくに行きたいとも思っていなかった。
だが、野田は高校進学を熱心に勧めた。
(幼い頃から仕事ばかりで育った娘は、まわりとチームワークを取れなくなるのではないか……。同年代の子と話すことによって、一番肝心なことを学ばなければいけない)
タレントの中には、ちょっと売れてくると勘違いして生意気になる娘もいる。そんな娘を野田はそれまでに見てきた。だからこそ、学校という環境を重視した。雛形は都立高校の夜間部に入ることにした。
海外でのグラビア撮影を楽しんだ雛形だったが、その写真が世に出て人にどう評価されるかということは、特に意識していなかった。ところが、南国で撮り貯めた写真が日本で出ると、一気に雛形ブームが起きた。
ブームの発端は少年マンガ誌だった。少年誌に水着のグラビアが載るのは刺激的だった。雛形が表紙に出たら部数が10万部伸びた、と話題になった。
ここで野田は一挙に仕掛けた。
(やるなら、今だ)
それまでは、タレントは同時期に複数の週刊誌の表紙に出てはいけないという不文律があった。だが、野田はこれを確信犯的に破った。
(誰も使ったことのない手を使ってやろう)
各出版社から依頼が来るなか、雛形は同じ週に、講談社の『週刊少年マガジン』と小学館の『週刊少年サンデー』の表紙を飾った。前代未聞のことだった。
1994年の7月には写真集とビデオを発売した。
当事者の雛形は、なぜ自分が売れるのかはわからなかった。野田が自信を持って自分をプロデュースしてくれたのだから、それを信頼するようにした。
ブームに火が点いてからは、グラビア撮影をこなす日々が続いた。高校には進学したものの、あまりの忙しさにほとんど通えない状態だった。結局、高校は数日登校しただけで辞めてしまった。
そのいっぽうで、雛形は1994年7月スタートのTBSのドラマ『毎度ゴメンなさぁい』に初のレギュラー出演をしていた。
じつは、このドラマへのレギュラー出演は、雛形が野田プロデュースの水着写真集を出す前にすでに決まっていたのである。
野田は雛形のスカウトに入った1994年の6月には、すでに雛形のプロモーション活動を始めていた。見切り発車だった。だが、業界では「今日、事務所に入りましたから、明日から使ってください」というわけにはいかない。常に先のことを考えて行動していた。
まだ無名だった雛形の写真を持って、野田があちこち営業に回ると、どこでも好意的に接してくれた。事務所の所属タレントが一緒に写った写真を見せると、雛形が指差され「3人の中で欲しいのは一番左。真ん中とこっちは、来てくれてもわからない」と言われたこともあった。
このドラマで雛形は、 “Fカップアイドル” の魅力をふんだんに出すため、毎回バスタオル一枚の姿を披露。その模様が毎回違うのも注目を集めた。
この年10月には、テレビ朝日のドラマ『ママのベッドへいらっしゃい』にも出演した。
そして、1994年度フジテレビのビジュアル・クイーンに選ばれ、1995年(平成7年)10月のテレビ朝日の『元禄太平記・忠臣蔵 討ち入りの助っ人たち』では、時代劇初出演も果たした。主演は松平健で、雛形はヒロインであった。細面の雛形は鬘(かつら)がよく似合った。
雛形は、まったく違う時代にタイムスリップして、別の人格になりきれることが楽しかった。幼い頃から習っていた日本舞踊で身につけた所作も、役に立った。
同年10月スタートのテレビ朝日のドラマ『花嫁は16才!』で、雛形はイジメ役に挑戦して、胸だけでなく演技で男性の目を釘付けにするほどの意気込みを見せた。
ともさかりえ演じる身寄りのない少女・館野なつみが、中山秀征演じる財閥の御曹司である立花直人と結婚するシンデレラストーリーで、雛形は御曹司に恋心を抱き、なつみに嫌がらせをする立花久美子役だった。
雛形は記者に語った。
「金持ちでイジメる役は初めて。根っからのイジワルではなくて、直人を愛しているために、なつみに辛く当たってしまうんです。でも金持ち役って難しい。“お母さま”って言うこともそうなんですが、『お金持ちってどういうことをするんだろう』と撮影の時も考えてしまいます。中華料理を食べるシーンで長い取りバシでそのまま料理を食べちゃったり、洋食でフォークをどれから使えばいいのかとか。間違えちゃって“クセが出ちゃうんだよね”とみんなと話してます」
雛形は、さらなる意欲を語った。
「キャピキャピじゃなくて、サスペンスドラマで死んでしまう役もやってみたい」
このようにドラマの出演、テレビ、ラジオのレギュラー、CMと忙しくなってきた時期に、野田は雛形を歌手デビューさせた。
野田には独特の考えがあった。ドラマの撮影は週に5日は拘束される、オンエア前の1ヵ月はまったく他の仕事ができない状態になる。また写真集は一度出すと、次に出すまでに3ヵ月から半年は間を置かなければならないという不文律のようなものがあった。そこで、何か方法がないだろうかと考えた。
(そうだ、歌があった)
CDならば、わずかな空き時間でも収録できる。さらに音楽はプロモーション活動としても有効だ。イベントで人を集めて、生の雛形を見てもらえる。
ところが、当の雛形は歌うことに乗り気ではなかった。なにしろ、雛形は歌にはまったく自信がなかった。自分で下手なことを自覚していて、カラオケでさえ歌わなかった。それまで野田を信頼し、その方針に従ってきた雛形が一番抵抗したのが歌手デビューだった。
だが野田の考えはもうすでに固まっていた。なんとか雛形を説き伏せた。
「これは、みんな通る道なんだ」
曲のプロデュースは、小室ファミリーの一員である浅倉大介に依頼した。
雛形はレコーディングの合間に、スタッフと尻取りやゲームをしながらリラックスして収録に臨んだ。
1995年8月2日、雛形のデビュー・シングル『笑顔の予感』が発売され、8月6日には、東京・よみうりランドEASTでCDデビューイベントを開いた。気温35度を超える猛暑の中、10代の若者を中心に7000人を超えるファンが集まった。
雛形は、ムチムチの太ももをあらわにした短パンにTシャツというスタイルで、ステージに登場した。
雛形が歌い始めるまで、野田はステージ脇のカーテンの裏に隠れていた。半ば強引に歌手デビューさせた野田だったが、イベント当日は怖くてまともに見ていられなかった。誰よりも野田自身が雛形の歌の実力をよく知っている。CDならば、録音機材を使っていろいろと調整ができる。だが、ライブではそうはいかない。
野田は、雛形の歌声が聴こえ始めると、カーテンの隙間から恐る恐る覗いてみた。すると、そこには楽しそうに歌っている雛形がいるではないか。
「ヒナも頑張るから、みんな応援してね」
そう言って笑顔を振りまいている。観客もそれに応えて、沸いている。猛暑の中、観客が日射病で次々と倒れるほどの盛況だった。
雛形はファンの声援に応えた。
「みんなノッてくれるから楽しい! 今年は、いろいろなことにチャレンジしていきたい!!」
ライブのあとには、集まったファン一人ひとりと70分間にもわたって握手会をした。もともと、このイベントには4日前に発売されたCDを買ってくれた人しか参加できない。握手会やサイン会は、ファンとさらに強い絆をつくる絶好の機会だ。
野田は言う。
「サインが嫌ですと言うやつは、ひっぱたく。『この野郎、何さまだと思っているんだ!』と。いますよ、勘違いする娘。そういうのはクビにします」
この後も、雛形は札幌、仙台、福岡、名古屋と続けてイベントを開催。8月13日の大阪・関西国際空港玄関口「りんくうパパラ」でのライブには3000人が集まり、わずか1週間で動員した観客は延べ2万人を突破した。
デビュー・シングル『笑顔の予感』は、オリコン・チャートで最高28位に入った。売り上げは10万枚を突破した。
その年11月にはセカンドシングル『WONDER GIRL』を発売。よりアップテンポな激しい曲に仕上がった。翌1996年の2月2日にはサードシングル『揺れる恋・乙女心』を発売。雛祭りの3月3日には「雛」に引っかけ、初アルバム『ヒナ・コレ』も発売した。
曲が売れたのは、浅倉大介がプロデュースするダンス調のナンバーが受けたということもあったが、最大の要因は雛形のパワーにあった。
だが野田は、雛形をよくこういさめた。
「おまえがここまで来れたのは、堀江しのぶが苦労してくれたおかげだ。おまえはそれに乗って動いてるだけなんだから、いい気になるんじゃないぞ」
野田には、堀江しのぶの時に見た夢を、もう一度、雛形で実現させようという思いがあった。そして、雛形も苦手な歌を頑張った。
CDは順調に売り上げを伸ばし、トータルで100万枚を突破する勢いだった。ところが、雛形本人がギブアップして野田に訴えた。
「何でもやりますから、これ以上、歌だけはカンベンしてください!」
野田は当時を振り返って語る。
「ふつう、1回目より2回目、2回目より3回目のほうが上手になるんです。あいつの場合は、そうならなかった」
それを聞かされた雛形は苦笑しながら弁解する。
「だって、1年くらいのすっごい短い期間で、2ヵ月に1回くらいのペースでCDを出していったんですよ。なんかもう上達も何もないって感じなんですよ」
結局、雛形が歌手活動をしていたのは、1995年8月から1996年にかけてのわずか1年半だけである。シングル6枚、アルバム2枚を出して終わった。
雛形は今でも振り返って思う。
「歌の話が出ると、申し訳ないって気分になる」
それでも、雛形はライブで直接ファンと触れ合えたことがうれしかった。グラビアや写真集では、部数が何万部と言われても感覚としてわかりにくい。歌ならば、これだけの人が応援してくれてるんだということが実感できる。自信にもつながった。
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