須藤 『CosMos コスモス』の日本語版出版おめでとうございます。僕もラズロさんの本を3冊ほど読ませていただいています。格闘技をやっていたときから、「We are all one」というメッセージを掲げて試合をしていたんですけれども、ラズロさんの言われる心の進化というものに本当に共感していますし、影響を受けています。
ラズロ ありがとうございます。(映像で)須藤さんの入場パフォーマンスを見て思い出したことがあるのですが、モハメド・アリは私のよい友人でした。彼は実は絵を描く趣味があって、私が国連にいた頃ですが、ある夜私の部屋にやってきて、キャンヴァスを立てて窓から見える夜景を描いていったことがあります。彼もあなたと一緒で、ファイティング・スピリットとアーティストとしてのインスピレーションの両方を持っていました。
須藤 彼が絵を描くとは知りませんでした。現役時代からでしょうか?
ラズロ 現役時代から絵は描かれていたと思いますが、本格的にのめり込んだのは引退後だと思います。
須藤 まさにマーシャル・アーティストですね! ラズロさんはブダペストクラブというシンクタンクを組織されていますが、この名称に何か意味はあるのでしょうか?
ラズロ ブダペストクラブの前に、約40年前に創設されたローマクラブ(編註:石油王としても知られるアウレリオ・ペッチェイ博士が地球的規模の問題に対処するために設立したシンクタンク。人類の危機を予見した『成長の限界』レポートを発表し、ラズロ博士はペッチェイ博士の右腕としてその制作に携わった)という組織があるんです。ある日、ローマクラブの創設者であるアウレリオ・ペッチェイ博士と私のミーティングの中で、ビジネス寄りでない、アーティストや文学者たちも参加するローマクラブと似たような組織がつくれないかという話をしました。それがブダペストクラブ創設のきっかけです。名称の由来は、その打ち合わせを最初に持ったのがブダペストだったというのがひとつ(編註:ローマクラブも打ち合わせを最初に持ったのがローマだった)。もうひとつは、ブダペストという都市の成り立ちにあります。ブダペストはブダ地区とペスト地区という、ふたつの別々の街が結びついて一体となった都市であり、異なるアイデンティティを持つふたつのものがひとつになって発展していくという意味も込めました。
須藤 なるほど! ブダペストといえばラズロさんの故郷でもありますが、どのような子ども時代を過ごされたのですか?
ラズロ 本当に楽しい幸福な子ども時代でした。ただ、1年だけ例外がありました。それは第二次世界大戦の最後の年で、ドイツ軍がブダペストを攻撃しているところにソビエト軍が攻撃をしかけてきて、街のいたるところで戦闘が起こっていました。食料もないし、不安だし、辛かったんですけれども、その1年を除けば、楽しく学校に通って、ピアノも練習して、アイスホッケーなどスポーツも楽しめました。
須藤 アイスホッケーから帰ってきたときは、やはりお母さんがおやつをつくってくれたりしたのですか?
ラズロ 当時のブダペストでは、朝食の後、朝10時頃におやつを食べる習慣がありました。パンに鴨の肝をつけて食べるのです。最近はあまり食べなくなったようですが。
須藤 フォアグラをイメージしますが……。
ラズロ そう! フォアグラのようなもの。とても好きでした。いまでもフランスで食べるフォアグラは、ハンガリーからきていることが多いんですよ。
須藤 知らなかったです。
ラズロ ハンガリーには鴨を飼っている農場がとてもたくさんあります。
須藤 その頃、ご家族ではどういった料理をどのように食べていらしたんでしょうか?
ラズロ 鴨料理はおやつのときだけでした。夕食よりも昼食をしっかり食べることが多かったです。パプリカをよく使う料理が多くて、パプリカで味をつけたチキンだとか、スパイシーなものが多かったですね。
須藤 現在のハンガリーでも、夕食よりも昼食をしっかり食べるのでしょうか? もし食べないとしたら、なぜ昔は昼食のほうをしっかり食べていたんでしょう?
ラズロ 現在のハンガリーでは、夕食のほうをしっかり食べるようになっています。それは、いまは時間のプレッシャーが厳しくなっていて、昔のように昼食は自宅に帰れるという職種がなくなってしまったからです。いま私はイタリアを拠点としているので、自分のスタイルで昼にしっかり食べるようにしています。あることわざなのですけれども、「朝、食べ物を見つけたらそれは友達と分かち合いなさい。昼、食べ物を見つけたらそれはすべて自分で食べなさい。夜、食べ物を見つけたらそれは敵に与えなさい」というのがあって、これにはまったく同感です。
須藤 当時のブダペストの文化ですとか、政治状況はどのようなものだったのでしょうか?
ラズロ 第二次世界大戦の前はやっぱりドイツの影響が強くて、ハンガリーは独立国ではありましたけれども、戦争が終わってからソビエトがやってきました。ソビエトの共産主義の独裁政権が本格的に始まる前年の1947年に、私は幸いにもハンガリーを離れることができました。ハンガリー政府が私のピアノの能力を高く評価していたため、スイスでの国際コンクールに出ることになったのです。幼いピアニストがハンガリーを代表してコンクールに出ることは非常に名誉なことで、パスポートが特別に支給されました。それで、その時期に家族と一緒に国を離れることができたのです。ブダペストには祖父がつくった靴工場があったんですけれども、それがソビエトが入ってくるときに、解体されてしまいました。父はその工場長だったのですが、働いていた人がまた同じ会社で働けない決まりができて、辞めさせられてしまったところでした。ちょうどそのときにスイスに行けたことがよかったです。
哲学者。かつてはコンサートピアニストとしても活躍。ノーベル平和賞受賞者7人を会員に持つ「ブダペストクラブ」会長。原子・人間・宇宙に存在する一貫性のある原理・構造を探究する「システム哲学」を提唱し、その発展に努めている。ニューヨーク州立大学教授、ベルリン国際平和大学理事・教授、国連調査訓練研究所所長、ユネスコ顧問などを歴任。日本では映画『地球交響曲(ガイアシンフォニー)第五番』(龍村仁監督)の出演者としても知られる。01年度「五井平和賞」受賞。04年、05年、ノーベル平和賞候補。最新刊『CosMos コスモス』(小社刊)他、著書多数。
作家、俳優、元総合格闘家、拓殖大学レスリング部監督。高校時代からレスリングを始め、全日本ジュニアオリンピックで優勝。世界グレコローマンレスリング大会日本代表となる。高校卒業後渡米し、サンタモニカ大学でアートを学ぶとともに、格闘家として経験を積む。帰国後、逆輸入ファイターとしてデビュー。UFC-J王者を経て、K-1 やHERO'Sなどを主戦場に活躍。その独特なファイトスタイルとパフォーマンスは多くのファンに支持され、トップファイターの地位を確立する。06年末、突然の引退を発表。現役中より俳優、執筆、書道など幅広く活動している。『風の谷のあの人と結婚する方法』(幻冬舎文庫)、『レボリューション』(小社刊)他、著書多数。講演活動やチャリティーにも精力的に参加し、それらの活動を通して、「WE ARE ALL ONE(全ては一つ)」というメッセージを発信している。
