聞き書き四谷怪談 第十三回
二世と契ったはずのお袖さまが今では鰻獲りの女房と聞いて、与茂七さまはぐッと絶句なされ、お袖さまも思わず息を呑まれましたが、一人直助は図々しく、
「いいんだよ、お袖。以前の亭主に居場所を知られて、いつまでもシラを切っちゃあいられめえ。――与茂七さん、この女はもう俺の持ち物だよ」
与茂七さまは直助から眼を背けられ、かわりにお袖さまをじっと睨みつけられました。
「夫婦別れをした女房が、再縁するのはままあることだが、去り状(*1)も渡さぬうちに再縁とは、誰が許したのだ」
「そうおっしゃるのももっともでございます」お袖さまはお顔もあげることができませなんだ。「話せばこれには、長いわけがございます。お父さまとお前さま、ともに人の手にかかって……」
「やいやい、今さら何いったって遅せえや」
直助は浅草裏田んぼの人殺しの話は、与茂七さまの前ではしたくありません。お袖さまの話をさえぎりまして、
「与茂七さんよ。あんたも未練をいいなさんな。黙ってこの女をあっしにください。よござんすね。貰いましたよ」
「なるほど」与茂七さまは苦笑なされ、「横車もそこまで押せればたいしたものだ。その気性に免じてこのおんな、熨斗(*2)つけてさしあげましょう。しかしただではあげられぬ」
「女の手切れか、金のこったな」
「金ではない。過日おんぼう堀の闇の夜に、つい失った書付がある。かわりに拾ったこの鰻かきの柄に書いてある、権兵衛というのはおぬしであろう。その書付を渡してくれれば、女房はくれてやる」
「そりゃまた奇妙なものと交換だなあ」直助はにやにやと、「ま、こっちゃあシロウトだから、小間物屋仲間のこたあ判らねえ。四、五十人からの名前があって、そいつらを集める廻文なんてものあ、持っていたってしかたがねえやなあ」。
直助はそこまでいっておきながら、にやりと笑ってそらとぼけ、
「ま、返してやりてえのはやまやまだがね。俺は拾ってねえんだよ。拾わねえものは返せねえや。ほかをあたってくんなさいよ」
あまりに露骨な直助のとぼけように、さすがの与茂七さまも、静かな口調に激怒をにじませられ、
「ホウ。なかなか一筋縄ではいかぬものだな。だがお前らのしていることは、あからさまなる不義(*3)密通(*4)。私がかつてのように武士であれば仇にひとしく、町人なればことによれば、耳鼻をそいだうえに金をゆすりとってもいいほどのことだ。しかし私が望んでいるのは、ひたすらにその書状である。渡さぬまではこの家に、居座らせていただこう」
「干からびるまで座っていりゃあいいだろう」
与茂七さまはもはや何もおっしゃらず、お袖さまに促されて次の間に下がっていきました。
むろんのこと直助は、廻文状を所持しておったのでございます。与茂七さまがあれほど欲しがるということは、この廻文状には値打ちがある。これを高野師直さまの屋敷へ持っていけば、かならずや恩賞を受けることでありましょう。一文無しの塩冶浪人になど、譲り渡すつもりはございませんでした。あまつさえ直助にとって与茂七さまは、殺したはずなのに生きている、憎きも憎い恋敵でございます。高野側に取り入ることができれば、与茂七さまの命を今度こそ奪うことができるに違いないとも、直助は考えておりましたが、
(いやいや、そんな悠長に機会を待っちゃいられねえ。いっそ今のうちにぶっすりとやっちまったほうが、手っ取り早いんじゃねえか……)
お袖さまとようやく枕を交わしたその矢先に、死にぞこないの与茂七さまが現れて、頭に血が上った直助は、ありあわせの出刃包丁を握って次の間に忍んでいこうと立ち上がると、
「お待ちなさいませ」
お戻りになったお袖さまに止められました。
「与茂七どのももとは武士です。あなたに怪我があってはなりません」
「何をぬかしやがる」直助はお袖さまを信じることができず、「おためごかし(*5)にゃ誤魔化されねえぞ。おまえ与茂七を庇う気だな」。
「男のくせに気を回したりして、いやですねえ。あなたは私が大事を頼み、枕を交わした、ただ一人の男です。与茂七どのを殺すなら、私に策がございます……」
まずお袖さまが与茂七さまに酒を飲ませ、この部屋に屏風を立てて寝かせてしまう。寝入った合図にお袖さまが行灯の灯りを消し、そこへ直助が忍び寄って一突きすれば、間違いなく殺すことができるはず。……お袖さまの計略に、直助もそれなら確かに殺せると、さっそく包丁を持って立ち上がり、表で合図を待つことにしたのでございました。
そこへ入ってきたのは与茂七さまでございます。
「お袖。あるじの権兵衛はどこへ行った」
「なにやら用事があるといって、たった今出かけました」
「そうか」と与茂七さまは表に出ようといたし、「それなら外で待つとしよう」。
「おとどまりください」お袖は与茂七さまを引き止められ、「あの乱暴者が、追いつめられて何をするか判りません。万が一のことがあったら、私はもうどうしたらいいか……」。
「しかしな、われらの廻文が奴の手にあるのは間違いない。あの中身を知られたからには、どうしても生かしてはおけぬのじゃ」
「それならば、間違いなく仕遂げられるようになさいませ」
「間違いなくとは、どういうことだ」
「私に考えがございます。……直助に私が酒を飲ませますから、酔いつぶれて屏風の内で寝入ったところを、一突きになされば、あやまたず殺すことができるはず」
「確かに」
「行灯の火を消しましたら、それが合図でございます」
「よし」
岩のぼうこん・お岩妹お袖
こうしてお袖さまは、与茂七さまも直助とは反対側の表へ送り出し、一人家の中に残られました。
(私はいったい、どのような因果でこれほどに、苦しい悲しい人生を送らなければならないのだろう……)
お袖さまは静かに屏風を立て、その中で武家の娘らしく、端然とお座りになりながら、静かに涙をこぼされたことでございます。
(私は実の父親の顔も知らない。兄さまが一人あるというが、それが確かなことなのか、生きているのか死んでいるのかも判らない。そんな私を母亡きあともいつくしんでくださった、義理あるお父さまも、お姉さまも、人の手にかかられて非業の最期をとげ、今また私がこのような、ねじれたさだめの渦に呑まれている……。
ああ、ああ、なにゆえ私は今日のこの日に、これまで守ったみさおを破ってしまったのだろう。私の心に何があったのか、もう私には判らない。かたきが討ちたいばかりであったとも思われぬ。しかしいまだ男を知らぬ身が、みだらな思いにとらわれたとも、やはり信じることはできない。そしてその同じ日に、殺されていたとばかり思っていた、与茂七さまがあらわれるとは、つくづく因果というほかない……。
……ついさっきまで守り続けた操を破るという、このとりかえしのつかぬ過ちだけでも、もはや生きてはいかれない。ましてやこのような宿業(*6)をもつ身の上では、生きていても甲斐はない……)
お袖さまは懐中より、小さな守り袋を取り出され、それを掌にのせ、じっとごらんになられました。
※1:去り状(さりじょう) 夫が妻に与える離縁状。三下り半。ふりぶみ。
※2:熨斗(のし) 進物にそえる飾りもの。吉事用。「熨斗を付ける」は、喜んでさしあげること。
※3:不義(ふぎ) 正しい道にはずれること。男女間の道にはずれた情交。
※4:密通(みっつう) 妻や夫のある男女が、異性とこっそり情を通じること。
※5:おためごかし 人のためにするように見せかけて、実は自分の利益をはかること。
※6:宿業(しゅくごう) 仏教で、前世のむくい・因縁。現世の果報の原因である前世の行為。
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