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雑学のすすめ 文・清水義範/絵・西原理恵子

モナ・リザの微笑み

 もうひとつ、この絵には画期的なところがある。それは人物の背景である。この女性の背景として、風景が描かれているのだが、人物のバックに風景を描くなんてレオナルドの時代にはなかったことなのだ。
 それどころか、ヨーロッパ絵画の中に風景画というものがなかった時代だった。レオナルドは何枚か風景をデッサンした素描を残しているが、それらはルネッサンス期に、ほとんど他に例のない風景画だったのである。
 もちろん、聖母マリアの絵や、キリストの絵などに、背景があることはあった。そこに、何本もの木が描かれていたり、花が描かれていることはある。
 だがその木や花は、実際の風景ではなく、空間を飾るデザインのようなものだったのだ。
 ところが、レオナルドは人物のバックに風景を描いた。彼には、空気遠近法という考え方があったので、実にリアルな風景になっている。
 空気遠近法とは、間に空気があるのだから遠くのほうはぼんやりと見え、しかも光学のせいで青っぽく見える、という考え方である。科学者でもあるレオナルドは、景色と、それを見る人の目の間にある空気のことに気がついていたのだ。
 だから風景が実際に見る通りのようである。
 しかし、そこであっさり納得してはいけない。そういう技法でまるで本当の景色のように描いてある風景だが、よーく見てみるとものすごく変なのである。こんな風景はこの世のどこにもないぞ、と思うぐらいの奇妙な風景なのだ。
 人物の右と左で風景がまるで違うというのも変である。人物の右側の風景は、いちばん遠く(上)に、フィヨルドの谷のような尖った山があって青い光を浴びていて、そこから、なだらかな丘が手前に広がり、そこを川がゆったりとくねって流れている。よく見ると、唯一の人造物である石の橋が川に架かっている。
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 一方人物の左側は、遠景が中国の山水画のような丸っこい頂上を持つ山の連なりである。そして、険しい山をぬって、流れの激しそうな川がくねってごうごうと流れている。川の色は赤くて、これは溶岩流なんだろうか、という気すらする。
 つまり、見事な空気遠近法で描かれているから、なんとなく本当っぽい風景だなあ、と見すごしてしまうのだが、実は実際にはありえない風景の前で、この女性はポーズをとっているのである。
 右側の風景は、文明のある現在を描いているのだろう。それに対して左側の風景は、天地創造から間もない頃の、まだ荒々しかった地球を描いているのだ。
 つまりこの女性は、現在と過去という、永遠の時の流れの前でポーズをとっているのである。時間の前で、すべてを包みこむような微笑をもって、あくまで優しく美しく。
 さて、この女性は誰なのであろうか。
 それについて、NHKの『迷宮美術館』では、とても面白い仮説をチラリとほのめかしていた。あんまり大胆な説なので断定的には言わず、ぼんやりと匂わせただけだったが。(その番組に、『モナ・リザの罠』の著者、西岡文彦が出演して解説していたのだから、あるいはその人の説かもしれない)
 番組のナレーションはこういうことを言った。
「レオナルドの日記の1493年の7月の記述に、『カテリーナ来る』とある。カテリーナとは、幼い時に父親の元に引き取られて別れた生母であった。母とそういう再会をしたのだ。しかし、カテリーナはその後病気にかかり、ほどなくして亡くなった。レオナルドが『モナ・リザ』を描く10年前のことであった」
 その番組ではそう言っただけで、モナ・リザは実はレオナルドの母だった、なんて決めつけはしなかった。いくらなんでもそれは大胆すぎる仮説だし、レオナルドの研究家の間でもそんなことは言われてないのだろう。ただ、気に留められるように少し匂わせただけだった。
 しかし、なかなか面白い仮説だな、と私は思った。なぜレオナルドは死ぬまでその絵を手ばなさなかったのだろう、という謎に説明がつくような気がするのである。
 そしてまた、過去と現代の風景という、時間の永遠性の前に、優しく微笑する女性、というのがまさに母性なのかもしれない、なんて思えてくる。
 また、なぜその女性はレオナルドの自画像にそっくりなのか、という謎もすっきりと解けるではないか。
 人によっては娼婦のようだと見、別の人は高貴な人物の夫人だろう、と見るという謎の絵である。そんな女性の特性をすべて身に受けて、永遠の前で微笑している女性なのだ。少なくとも、レオナルドにとっての女性そのものが描かれているのだと考えてみることは、できるのかもしれない。

第16回 「モナ・リザの微笑み」おしまい

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