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〈傍目八目(おかめはちもく)〉
この「おかめ」は「岡目」「脇目」などとも書く。要するに傍(かたわ)らから見ることである。そして八目は、囲碁の8つ先の手まで見えること。囲碁から来ていることわざは多いのだがこれもそのひとつで、他人の碁を脇から見ている者には、対局者よりもよく勝負が見えて、8目も先が見通せる、ということを言っているのだ。だから、物事の是非や得失は、当人たちよりも第三者のほうが正しく判断できるというたとえとなる。なお、「岡目」という字を書くことが多いことから、岡の上から見ているのだとする説もある。さて、どうなんだろう。他人の碁を岡の上から見るなんてことがあるとは思えないが。では次。
〈門松は冥土の旅の一里塚〉
正月には年をとるのだから、一見目出たそうな門松も、死への一里塚だとする皮肉でブラックな言いまわしである。これは室町時代の名僧一休宗純(あの、とんちの一休さんである)の狂歌「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」の上の句と伝えられている。
せっかく人が正月で浮かれているのに嫌なことを言う坊さんである。めでたい物も異なる角度から見るとまったく違う面を持つ、という深い教えとも言えるのだが。
なお、今は満年齢の数え方で、誕生日に年を取るのだが、昔は数え年で、正月にひとつ年を取ったから、この言葉もことさら説得力があったのである。では次。
〈窮鳥(きゅうちょう)懐(ふところ)に入れば猟師も殺さず〉
猟師に狙われた鳥が逃げ場を失い、猟師の懐に飛び込んでしまった。獲物が自分からつかまりに来たようなものだが、かと言って、そのまま頂戴するには抵抗があるではないか。むこうから救いを求めて飛び込んできたのだから。そういう時には猟師も鳥を殺せないものだ。
ということから、窮地に追いつめられた者に助けを求められたら、理由のいかんを問わずに助けるのが人情である、という意味になった。中国に原典のある言い方で、日本でも『源平盛衰記』や『太平記』などに用例のある古いことわざなのだそうだ。では次。
〈首振り三年ころ八年〉
これは言うまでもなく、「桃栗三年柿八年」という言い方の、一種のパロディとして作られた言葉だ。そして、何事でもその道を極めるには並大抵ではない鍛練が必要だというたとえである。では、ここでは何の道を極める話をしているのか、わかるだろうか。首振り三年の、首振りとはどういうことを言っているのか。ヒント、ある楽器の修業をしている。
正解は、尺八。1尺8寸の竹の筒に穴を5つあけただけの楽器である尺八は、吹くのがむずかしいのだ。音を上げる時は顎を突き出し、下げる時には引く。首を前後に振るその技巧を修得するだけで3年の歳月を要し、その上さらに、ころころという妙なる音を生じさせるには8年もかかると言っているのである。
この言い方をきいて思い出すのは、作家の吉行淳之介が昔、バーでホステスを触れるようになるには修業がいる、という意味で作ったとされる、「腿(もも)尻三年胸八年」という言葉だ。面白いよね。では次。
〈下戸(げこ)の建てたる蔵もなし〉
酒を飲めない者が、酒代がかからないからといって資産家になった例はない、という意味。もっぱら酒飲みの自己弁護に使われる。
むしろ、こんなことを言っちゃあ飲んでいるのが酒飲みなのだ。江戸時代からある言い方で、井原西鶴の『世間胸算用』には、「世中に下戸のたてたる蔵もなしとうたひて、また酒をぞ呑ける」というくだりがある。では次。
〈ごまめの歯ぎしり〉
「ごまめ」とは片口鰯の干したもの。田の肥料にすれば4万俵の収穫が5万俵に増えるというので、「五万米」などとも書く。また、同じところからこれを「田作(たつくり)」とも言う。
そういうわけで縁起がいいので、お節料理にも用いられる。
さて、そんな小魚が歯ぎしりをしたって、他人の耳には痛くもかゆくもない、というところから、能力や力のないものが、いたずらに憤慨することのたとえとなった。
しかし、どうしてごまめに歯ぎしりをさせるなんてことを考えたのだろうねえ。あまりにも変なことを言ってるわけで、なんとなくユーモラスである。この言い方は、自分で自分のことを言うなら自嘲となり、他人を批評する時に言うなら皮肉になる。江戸時代中期からある言い方だそうだ。では次。
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