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〈猿の尻笑い〉
猿が、ほかの猿の尻が赤いことを笑うのである。自分の尻だって赤いのに。
そこから、自分のことは棚に上げて、他人の欠点を嘲笑うことのたとえとなった。
同じような発想のことわざは多い。「目糞鼻糞を笑う」とか、「障子の破れ目から隣の障子の破れを笑う」なんていうことわざもある。それらの中では「猿の尻笑い」は江戸時代前期から広く使われているのだそうだ。では次。
〈沈香(じんこう)も焚(た)かず屁もひらず〉
沈香は、ジンチョウゲ科の木の名前で、伽羅(きゃら)という名でも知られる。香木として焚いて香りを楽しむものだ。そういう香木も焚かないし、屁もひらないというのだ。だから、目立った長所もなければ、特に短所・欠点もなく平凡である、ということを言っている。役にも立たないが害にもならない凡庸なことのたとえでもある。
江戸中期頃には盛んに用いられた言い方だそうだが、お香に対して屁という強烈なものを持ち出してくるのが、江戸の町人ならではのセンスである。では次。
〈頭巾(ずきん)と見せて頬被(ほおかぶ)り〉
体裁よく見せかけてはいるものの、内実はやりくりが苦しいことのたとえ。
頭巾はもともと頭にかぶるために作られたもので、頬被りは、衣服や手拭いで頭から頬をおおうことである。立派な頭巾かと思ったら、手拭いをかぶっているのか、本当は楽じゃないんだな、と判断しているわけである。そして、実際に頬被りを見た場合だけに限らず用いる。というのは、内情を見せずに白ばくれていることを、「頬被りをしてやがる」などと言うからである。
江戸中期には言われていたもので、平賀源内の滑稽本『風来六々部集』には、「もうけたところが五十か七十、みじんもつもれば山をなし、頭巾と見せてほおかぶり、いかな御客も足かろがろと御出(おいで)なされて」と用いられている。では次。
〈雪隠(せっちん)で饅頭〉
先日、テレビのバラエティ番組で、次長課長の河本がトイレで菓子を食べていたとバラされていたが、まさにこのことわざの通りである。雪隠とは便所のこと。近頃はあまり使われない言葉だが、将棋の「雪隠詰め」に残っている。意味は二つあって、(1)人にわからないように自分だけがよいことをするたとえ、というのと、(2)物が食べられるなら、場所はどこでもよいというたとえ、だという解釈がある。
いずれにしても強烈な言い方だが、上方系のいろはガルタにはよく採られていたそうだ。いろはガルタだということは、皆で取り合う絵札があるわけで、そのまんまの絵が描かれている例が多かったのだとか。あからさまですこと。では次。
〈袖の下回る子は打たれぬ〉
何が言いたいのか少しわかりにくい。これは、逃げだす子は叱れるが、すがりついてくる子は叱れないという意味だそうだ。
つまり、叱って、頭でも叩こうと手を振り上げた時、逃げるのではなく、振り上げた手の袖の下に入ってくる子は、叩けるものではない、ということであろう。回る、というのがやや奇妙だが、恐ろしがってうろたえている姿であろうか。
人間の心理として、相手が親愛の情を示してくれば冷たく対応できるものではない、ということを言っているのだ。
同じことわざの別の言い方で、〈杖(つえ)の下からも回る子が可愛い〉というのがあるそうだが、叱ろうと杖を振り上げた時、逃げようか、それともすがりつこうかと、杖の下でうろたえている情景であろう。
「あんな馬鹿息子は勘当すればいいのに」
「いや、馬鹿な子だが、頭を下げてあやまるんだよ。袖の下回る子は打たれぬ、と言うじゃないか」
というような具合に使うのだろう。
さてさて、ここまででやっとサ行まで終わっただけか。今回はこのへんまでとしておこう。この続きは、いつかどこかでやる機会があるのかないのか不明。
私としては、そうポピュラーではなく、しかも表現の面白いものを選んだつもりである。意味がいろいろに取れて考え込んでしまうようなものも取り上げた。
たとえば小学生などでも、ことわざを多く知っている子は国語力があるものだ。生活のいろどりとして、ことわざに楽しく接していきたいものである。
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