MouRaトップページ>

Net現代

RSS
Net月刊現代
Net月刊現代
トップページへ戻る
今月の目次
先月の大反響記事
バックナンバー記事一覧
月刊現代本誌バックナンバー



週刊現代Online

週刊現代Online

インターネットフライデー

moura

反響記事タイトル画像
 
 
 

“悪役”のイメージ

 
 

 今回、大連立実現のために動いた渡辺氏は、国民生活に重大な影響を与える問題に対しては、1000万部の大新聞の主筆として自ら政治的な行動を行うことは当然だと考えているかもしれない。
 しかし日本での特派員経験の長いある外国人記者は、日本の政治記者たちは派閥の領袖クラスに食い込むことを最重要の仕事と考えているので、彼らがコンタクトするのは有力政治家の3%程度にすぎない、という指摘をしている。外国人記者から見ると日本の政治記者はエリート主義で、政治が国民にもたらした現実の結果を知らない、ということになる。
 今回の渡辺氏のフィクサーとしての行動に対して違和感を持たない古手の政治記者は少なからずいるだろうが、それは日本の新聞界の歪んだ特殊事情にすぎないということをあえて指摘しておかなければならない。端的にいえば渡辺氏がしたことはメディアの権力の履き違えなのである。言論の自由が保障された民主主義国のメディアの役割は権力の監視であって、権力の直接的な行使ではない。
 近年、メディアの影響力が強まるなかで第4権力としてのジャーナリズムの役割が称揚されるようになったが、ここでいう第4権力とは議会、政府、司法(裁判所)の三権にくわえて4つ目の権力としてのメディアが台頭してきたということだ。議会、政府、司法の三権の暴走や間違いをチェックし監視する役割のことで、権力を監視する機関が多いほど民主主義社会はよりよく機能し、社会の透明化が進むという考えに基づいている。
 しかし欧米の新聞界とは違い、日本の新聞界には権力監視の考えよりも権力=支配するパワーという考えのほうが強い。つまりメディアの権力の位置を間違って理解しているので、新聞自身が当事者になって支配力を行使することにさしたる違和感を持たないのだ。このような新聞の権力意識の肥大化は、一介の報道者にすぎないジャーナリズムの権力を履き違えて行使することで、読者のニーズからも逸脱し、ジャーナリズムの本来の役割を見失ってしまう。
 渡辺氏はこれまでにも個性的な言動で物議をかもすことが多かった。たとえばプロ野球再編問題が紛糾したとき、「選手会会長の古田選手がオーナー陣と会いたいといっている」と質問したスポーツ紙記者に対して、「分をわきまえないといかんよ、たかが選手が……」と口走ったところをテレビカメラに捉えられ、世論の反発を買った。これに限らず日ごろの渡辺氏は“捨て台詞ぜりふ”のような片言隻句へんげんせっくをつかまれて“悪役”のイメージがつきまとっている。



詩人を夢見た愛妻家


 私は朝日新聞記者時代に大阪本社で仕事をしていたことがあるが、ちょうど大阪読売に対する東京支配が始まっていたころで、大阪読売の社会部・黒田軍団と他社に恐れられたグループを率いていた黒田清氏がのちに読売を去った理由は、東京読売の渡辺氏との権力闘争に敗れたためという噂が、ライバル社の私たちのもとにまで聞こえてきたものだ。
 さらに渡辺氏の大阪読売制覇によってそれまで発行部数が日本一だった朝日が読売に抜かれることになり、われわれ朝日社員は大いに無力感に襲われた記憶がある。
 私のように渡辺氏を直接知らない者は、マスコミ情報や噂だけで渡辺氏の人物像を判断するので、失礼ながら“悪役”イメージのほうが強い。渡辺氏と実際に会って話したことのある人に聞くとその印象は違っているが、一般的には権力欲が旺盛で自分の目的を遂げるためには犠牲をいとわず辣腕を振るう人物のように見えている。
 しかし著作を読むと渡辺氏が世上伝えられているような人物とは違うことがわかる。愛妻家で詩人を夢見、哲学者になるために新聞社に入ったというエピソードからは権力者のイメージは浮かんでこない。渡辺氏の近著のタイトルの「君命も受けざる所あり」は孫子の言葉で、その意味は、不適切な命令を上から受けたときは一命を賭してもそれを受け付けない、というのだそうだ。幾多の社内抗争をへて読売のトップに上り詰めた渡辺氏には、この孫子の言葉を実践して生きてきたという自負があるのだろうか。世の風潮や上司の命に唯々諾々と追従することのない反抗的人生こそが渡辺氏の生き方の真髄であったのかもしれない。
 それならばなぜ、という疑問が一層大きく広がってならない。渡辺氏のような人物にこそ日本の新聞界やジャーナリズムの革新をして欲しかったのに、それとは正反対の方向に走っている印象を受ける。
 今回の大連立構想でフィクサーとして行動した渡辺氏は自ら報道人の領域を超えて政治の中枢に介入することで、ジャーナリズム放棄ともいうべき現実を作ってしまった。欧米のジャーナリズム界を見渡してみてもこうした先例は見当たらない。


前のページへ 次のページへ

copyright(C)1999-2007 KODANSHA,Ltd.,Publishers

定期購読のお申し込みは
講談社BOOK倶楽部